昭和47年5月26日 朝の御理解
                       中村良一
御理解 第44節
「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後に、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」



神になることを楽しみに信心すると。自分達が、神になったつもりであっても、神にまつられ、拝まれる事にならなければ、神になったという事になりませんよね。自分だけは、神になったつもりであっても。だから、これはあの、まぁ、御道流儀に改式をすると。そすと、亡くなれば、何々の御霊の神というように、そういう意味の神じゃないと思うのですよね。これは、やはり、われとわが心が拝まれるだけではなくて、人からも、やはり、拝まれるようにならせて頂こうという様な、意欲を持って信心するという事。そういう願いを持って信心するという事。ね。だから、それを楽しみに信心せよと仰る。自分の心が、一歩一歩、神に近付いていけれるという事。そのことを楽しみに信心せよと。だから、自分の心が、楽しみに信心して行けれると言うこと、ね。ですから、そういう信心がなされていなければならない。自分の心が、いよいよ、神様に向かって進んでいくと言う信心。
第四十四節、しじゅうし節とか、ね。だから、ね。神にまつられるほどしの人、また、それを願うならばです。しじゅう、何時も、自分を空しゅうしておかなければならぬ。しじゅう、死んだ気でおらなければならぬ。これがもう、最高の神になる、まぁ、一番の手立てでしょうね。神になることを楽しみに信心せよと。しじゅうし節である。何時も、いわゆる、死んだ気でと、こう言うのである。いわゆる、自分を空しゅうする。
死んだ気で、励む勤めよ、道もつく、人も助かる、何だったかね、えー、「死んだ気て、励め勤めよ、徳も付く、道も開ける、人も助かる。」だったね。これは、私、二十数年前に頂いた御教えです。もう、私が、ぎりぎりの修行をしよる時に、神様は、何時も、そういう姿勢で、私に、教導受けたと思いますね。何時も死んだ気でおる。ね。必ず、道も開ける、徳も受けられるという事は、必ず、神になれると言うのですよ、言うならばね。御神徳を受けると言う事は、神様と、ある意味で、一緒になれると言うのですから。こらもう、神になるという事です。
昨日の、研修会で、文雄さんが、こんな事を言うてました。私はもう、一番初めから、自分の願いを神様に聞き届けていただくと言う、確信が持ちたいと、こう思ったと言うのですね。こらもう、確かに、初信の時から、そういう感じの人でしたはね。だから、自分の願いと言うものを、どうでも神様に聞いてもらわなければならない。ね。その代わりに、神様の言い分もです、聞かせていただこうと言う姿勢でおるということを言ってましたね。どうぞ、お願いします、お願いしますと言うて、おかげを頂くだけじゃなくて、その代わり、神様の仰せも、頂きますと言うのである。ね。だから、まぁ、それが、そうにいただけんにしましても、文雄さんの信心を見ると、一つ、筋金がピーンと、これだけはと言ったようなものがあるですね。例えば、生涯、腹を立てませんなんていうようなものは、もう、絶対のものですよね。
ですから、その、私が、私、こら私ですね、私が、何時も思うておる事、しておる事、ね。いわゆる、思うておる事、行うておる事、これは、私がしよるとじゃないなぁ、私が思いよるとじゃないなぁ、神様が思いござるとじゃなぁ、神様が行いござるとじゃなと、最近は、どの様な事の中からでも、それを実感する。これは、私の最近の実感なんです。そんな事を、文雄さんが、例にとって話しておりましたが。私もですね、私も、まぁだ、そこまで行っとらんっばってん、必ず、そういう風になれると思いますと、こう言ってます。もう、見事に神様を目指してるわけなんです。ね。
どうでしょうね。自分が思いよる事が、神様が思いござると。自分が行いよるとは、もう、神様が行いござるとと同じ事だと。ね、そういう、私は、生き方をさせて頂く。いわゆる、昨日の、酔生夢死ではないですけれどね。これは、酔生夢死というのは、本当の、いわば、あの、字引を引いてから見る意味は、一生、無意味に過ごしたと。何もすることはなしに済んだと言う意味らしい。だから、そういう事でです、神になれれる筈がないです。ね。例えば、社会に貢献をする。例えばほんなら、まぁ、その神も、その神は、私が言う神とは、意味が違いますけれども。例えば、乃木神社があったり、東郷神社があったりね。大楠公をお祭りしたお宮があったり、ね。武内の宿禰をお祭りしたお宮があったり。だから、そういうその、神でもまつられると言うほどしの人は、確かに、言うなら、お国ならお国に、人の為に世の為に、生涯を掛けた方達ばっかりなのです。ね。だから、自分は、神様になろうと思うてしなさったっじゃないけれども、人がまつらにゃおられん事になって、祀ることになったわけなんです。ね。自分が、いかに、神様になった気持ちでおっても、人が祀ってくれなかったら、そらもう、神様じゃないですは。拝んでくれなかったら。ね。だから、そういう意味での神なんです。だからその、そういう信心を、楽しみに信心していく。自分が、心が、一段一段、神様に向こうて行きよる事実を感じる。
昨日は、研修会で、桜井先生が、最近の信心体験を、大変、尊い、良いお話を発表しておられました。そしたら、私、そのお話を頂きよりましたら、小指でね、こうやって、耳をほじっているところを頂くんですよ。あれは、気持ちが良いですけれどね。それは、どういう事かと、小指ということは、いわば、恋人という事にもなるでしょうね。言うならば、本当に、神様に憧れておるというても良いでしょう。だからこそ、ほんなら、御道の教師にでも、ご夫婦とも、御道の教師にでもなろうかという事ですから。大変な、一つの憧れを持たなければ、出来るこっじゃない。ね。だから、例えば、ほんなら、今、何十年間という信心は、もう、それこそ、御用さえすりゃ助かるという様な、もう、御用精神に燃えておられた。けれども、これだけではと感じられるところから、いよいよ、合楽の信心を頂いておられる訳です。
先日も、んー、田中さんのお宅に、御用いただいておられます。そん時に、まぁ、その岐路に立たれた時に、先生が、色々考えさせて頂いとりましたら、西脇でんの御造営が、あぁしてあっております。先日の、十三日会の時に、委員長が言うておられました様に、もう、とにかく、その仕事の様が悪い。仕事は出来ておってもです。とにかく、道具の、もう、何でもかんでも、そこに積み上げたなら、積み上げたなり、もう、雨ざらし日ざらし。こげなもんな、片付けておかにゃという様な事もない。だから、こういうような事ではと言う、お話を聞いた時に、私は、どうでもその、御造営の済むまで、そういう意味においてです。言うならば、あの、御用させて頂こうと思いますがというお届けがありました。ね。御用の済むまで、そういう、例えば、商売人、職人の方達やらでは、手の届かないところを、信者の私があの、いわば、そういう御用をさせていただきたい。言うなら、教会の内外とも、色んな御用がありましょうから、そういう御用もさせて頂きたいという事がありましたら、あの、御神意を伺いましたらね、あの、田中さん所に、お出でられたが良いですという事でした。だから、私、そのことを、昨日申しましたんですけれども。例えば、これが、もし、ほんなら、正義さんか、文雄さんかがです。親先生、しばらく、自分の仕事をほうからかしてからでも、あの、今度の御用の済むまで、そういう御用をさせて頂きたいと願うなら、神様は、すぐ、許されたに違いは無い。ね。この人達の場合は、そこが欠けている訳。この人達ということは、ほんなら、合楽の信者の場合は、そこが欠けておる訳です。それだけの打ち込んだ御用が出来る、ね。けれども、桜井先生の場合は、そうじゃない。田中さんところに、御用を頂いたが本当だとこう、というほそしに、ほんなら、桜井先生は、事、神様のことに対したら、そういう御用に、いわば、ほんなら、心身共に捧げれるほどしの、おかげを頂いておられるけども、それは、小指で、耳をほじる様な事だと。まぁ、これは、なからなければいけませんよ、やはり。ね。合楽通いが、もう、楽しゅうて楽しゅうてたまらん、それこそ、恋人の元にでも通うような思いで通うという事ですから。もう、神様の御用というたら、嬉しゅうして応えん、これなんですから。ね。そして、桜井先生、これからはね、本当のおかげを、こうやって頂かれるために、こう、掴むことが出来れることの為に、小指だけじゃ掴まれん。ね。
それで、ほんなら、この、例えば、片手の五本の手を持って、御理解を聞いてもらうならばです。先ず一つ、この、薬指ち言うね、これは薬指という。これは、例えばほんなら、健康なら健康のことについてです。病気なら病気、その気にです、それこそ、信心一本でおかげを頂いたといった様なね、いわば、その場合には、そういうおかげ。
高高指、これは中心ですから、いわゆる、本心の玉を磨くことに本気にならにゃいけません。それから、人差し指、これは、人間関係、人差し指。もう、どのような難儀な人間関係であっても、それによって、自分が育てられるという生き方。それに、最後に、一番、この親指。ね。もう、本当に親を大事にする。親孝行せにゃおられん。もう、しゅうごつしてたまらんちいう様な信心がね、足ろうた時に、物が、こうやって、五本の指でつかめるように、おかげを受けられるんだと。先生、あんたのは、まぁだ、小指だけで、こうやって、耳をほじよる様なもんじゃから、おかげが頂けんのだと言う様な御理解でした、ね。だから、ほんなら、神に向かうという事の内容の信心というのは、ほんなら、やはり、自分というものを、空しゅうしとかなければ出来るこっじゃないでしょうが。始終死んだ気でおらなければ。どういう問題が起きてきても、それを、死んだ気で受けていこうと言うのですから。もう、これに勝つものは無いです。もう、死んだ気でおる者ぐらい、強いものは無いです。ね。そういうところを、例えば、今の人間関係とか、お仕事の上でです。もう、今までと、いわゆる、今迄の桜井とは違った自分を、時々、田中さんところのお仕事をさせて頂きながら、発見すると。自分も、これほど、不動のものがあったのだろうか。自分の、こういう心を、あの、心配りというか、ね。例えば、今が、一番苦しいところを通りながら、あの、人が、はっと思われた時には、その人の事を、一生懸命、祈れておる自分に気が付いて、まぁ、有難いと言っておられます。ね。だから、これが、段々、足ろうていかなければいけない。ね。
例えばほんなら、御造営なら御造営という事にです、ね。例えば、これは、甘木の御造営の時なんかは、あの、伊万里の平田さん辺りを中心にして、十人余りというものは、何年がかりで、自分の仕事を、全然、されなかったそうですからね。もう、それに、かかりきられたち言う。自分を空しゅうする。なるほど、徳を受けられた。ね。そん時の、御用を頂いた者は、もう、みんな、おかげを受けておりますと言うて、何時か、一人ひとり、あの、平田さんから、私、聞いたことがありますけれどもね。ただ、自分の仕事の余っとる時だけ使うという事ではね。余りものをお供えするようなもんですよ、いうならば。
豊美の行っておりますところ、古川家ですけれども。まぁ、あそこの主人とでも言うかね。おもなかにと、と言うのは、何時の場合でも、末の為人様が中心の様ですね。いわゆる、教祖様の、一番下のお嬢さんであり、そして、古川家の本家に、ご縁に付かれた。お母様の里に、縁に付かれた。そこに、いわゆる、古川洋三さんの所ですね。いわゆる、古川家。その、私があの、豊美が、あちらに縁に付いてから、一番初めに、あの、拝ませて頂くのは、末の為人です。そして、四神金光様の御取次ぎを頂いて、様々なお願いをさせてもらいます。末の為人の場合は。ね。ほんなら、後々の者が、末の為神と言うて、その、拝むだけではなくて、教祖の神様が、もう、神格を与えておられた訳ですね。この様、末の為人、末の為の神と書いてある。で、末の為神とこう、お呼び申し上げる。それが、ほんなら、どういうところから、そういう事になられたかと。それは、教祖金光大神、いわゆる、親金光様のお徳によることですけれども。三代金光様は、ご幼少の時に、もう、医者が難しいと言うほどの病気にかかられたことがある。そん時にね、ちょうど、叔母様に当たるところの、末の為神様がね、もう、水垢離とって、願われたそうです。だから、叔母様には御恩がある、叔母様には御恩ががあると言うので、金光様が、今の豊美の所の、あの、家は、金光様の、いわゆる、お手元金を出されてから建てられた家だという事を、古川先生から聞きました。ね。言うなら、三代金光様が助かっておられる。末の為神のために、おかげで。ね。なるほど、末の為神と、神様がご神格を与えなさっただけではない。なるほど、後々、末の為神様が拝まれなさると言うことが分かる訳です。ね。だからもう、すべてのことに、空しゅうとはいけんけれどもです。ある、一つの願いを立てた時にです。その事だけには、自分を空しゅうして、信心を進めていくといったような信心からですね。私は、本当に、自分が、神に向こうて行きよる自分を、いわゆる、桜井先生じゃないけれども、発見していく。
それが、ほんなら、私が、そうですな、はぁ、もう、桜井先生のような行き届いた方に、ここをやってもらうなら、それは、教会としては、大助かりなんですよ。ほんなら、そう、おかげ頂かれたら、良いだろうと言ったら、もう、その事を、先生は、好きでたまらんとじゃけんね。そういう御用をすることやら。もう、十何年、鍛うてきちゃる訳です。それこそ、それでは、しかし、耳の穴を、いわば、ほじるようなものだと。程度の事だと。ほんなら、小指もなからな、掴むときに掴まれませんからね、こうやって。それも大事だと。だから、うちの、あんな御信者産方が、もし、そういう願いどんするならば、ほんなら、おかげ頂いたらよかろうと、私は言うに違い無いです。一時、二時の時間ども、ね。言うならば、半年、一年の、言うならば、自分の生涯、ほっぱらかしたって構わんです。と、私は思うです。そういう、例えば、神になることを楽しみに信心せよと。ね。
例えば、私が、桜井先生に、そんなら、うちで御用を頂きなさいと言うたとでは、そこは生まれないけれども。言うなら、自分には、全然、苦手なんです。ね。言うならば、何ち言うですか、やっぱ、土木建築のような、お仕事の所の、しかも、その、いうならば、入りはなじゃから、一番下から行きなさらにゃいけんのですね。言うなら、荒くれ男を相手にして、それこそ、まぁ、言うならば、大したことも、何にも、言うなら、金光様の先生ほど、何も分からん、出来ないと言うくらいですから。それは、ほんなら、つるはしも握ろう、スコップも握ろうという事になられたのですから。それは、まぁ、出来る人から見たら、面倒くさいじゃろうけれども、先生としては、もう、一生懸命、死に物狂い。そういう中にです。新たな自分というものを発見して行きよるとこう言うのである。ね。和賀心の、神様が育っていかれる事のための土台が、そのようにして出来ていくのです。
皆さんも、せっかく、信心をさせていただくのですから、ね。此の方の事を生神、生神と言うが、みんなも、このようなおかげが受けられると。ね。此の方が、おかげの受け始めであって、ね。みんなも、このようなおかげが受けられるぞと、教祖は、示しておられる。生神とは、心に神が生まれると言うことであってと。自分というものを、空しゅうしたところから、生まれてくる心なんです。ね。そういう心が、ね。それこそ、一銭、二銭と、貯め上げていく様にです。ね。積み上げられていくことが、はぁ、文雄さんじゃないけれども、ね。この調子で行きゃ、親先生が、今、感じておられる様に、自分の思うとることが、または、自分が行うておる事が、そのまま、神様が思いござるとな、神様が行いござるとなと言う様な、境地が開けてくるに違いは無いと、確信が持たれてくるのです。そういう信心を、させて頂いておると、こう言うのである。まさしく、神に向かうていく信心を、楽しみながら、・・・。あの人の信心を見ておると、楽しみながら信心しよると言う感じがするでしょうが。分かっとると言うだけでなくて、もう、それもしかも、誰も知らん、影の所を大事にしながらですね。あの、自分の心が、豊かに育っていくことを、楽しみに信心しておるというのが、やっぱ、感じます。ね。そういう信心をです、ね。死したる後、神に祀られる事を楽しみに信心せよとは、そういう様な事だと思います。
いよいよ、昨日、頂きます、酔生夢死ですね。これは、今も申しますように、字引を引いて、この意味を確かめると、一生を無為に過ごした。なすこともなしにすごしたと言う意味らしいけれども。御理解を頂くと、それこそ、有難い、勿体なきに酔いながら、ね。そして、私は、昨日も、本当に、私の、行うておる事が、あの、神様の行いござることだなぁと、言った様な事を、実感しておらなければ、おられない事はね。昨日は、久保山さんが、散髪の日でしたから、散髪をして貰いよった。そしたらあの、こうやって、あの、首にかけるやつを引っかけよったら、私の足に、あの、大きなあの、何が出来とります。座りだこが。それに引っかかってから、やっぱ、あっという間もなしに取れた。私が、昨日、その話をしたでしょうが。ね。夢死する。いわゆる、夢の中に死していけれると言うほどしに、安楽死というか、安楽の境地を開きながら、だから、死ぬることは、決して怖いことでも無からなければ、悲しいことでもないんだと。それが、自分で、段々、確信付けられる。それは、例えば、私は、怪我した時に、その、ね。あの、悔いが残ったけん、ほんなら、これを切り割ってからでも、針で刺してからでも取ろうといった様な事は、決してしない生き方だと。そのように自然、成り行きを大事にしながら行くとです。もう、痛いも何も無い中に、ちゃんと、それこそ、ぽろっと取れる様にです。おかげをいただけるんだと言う話をしたでしょう。そしたら、昨日、それが、事実、やっぱ、あったんですから。私の上に起きてくる事は、本当にもう、その、久次繁雄さんが、そばに居られましたから、いやぁ、もうと言って、あの人はもう、五つか、六つかあるて、そうにゃ座りなさいますもんですから、お寺ですから。(笑い)それで、昨日も、こうやって、押し頂いてて、あの、何に包んでですね、ポケットの中に入れよりなさったけんで、やっぱり、はっはは、それは、ほんなこて、私なら、修行の後ですからね、言うならば。ね。けれども、そういうようにね。もう、本当に、自分の思うたり、行うたり、自分に起きてきていることは、そのまま、もう、神様が思いござるとじゃなぁ、行いござるとじゃなぁという様な感じがするんです、本当に。ね。いわゆる、自分の心が、いよいよ、神に向こうていく事を楽しみに信心させていただいておるからなんです。ね。これば、いっちょ、貰うためにという事ではいけない。
今日、私、御神前で頂いたことはね。羽織の紐を、ぽんと、こうやって、解いたところを頂いた。ね。それこそ、私とあなたは、羽織の紐よと、胸に結んで、その、ね。固く結んで、胸に抱くかね。というようない、神様を頂いておるごたるから、もうあの人は、大丈夫のごたるけれども。ちょいと、誰からか引っ張られると、ぽろっと、解けちしもうてから、もう、金光様じゃなくて、何何様と言うごつなってくるとですけん。そんな人もあるとですよ。ちょっと引っ張りゃぽろっと解ける。だから、そういう、信心では、絶対、神になると言う事は出来ませんです。ね。いわゆる、これが、それこそ、引っ張られれば、引っ張られるほどです。から結びになっとって見なさい、しっかり。引っ張られりゃ、引っ張るほど、固うなってくるです。ね。
昨日、日田の武内つぁんが、お届けされる中に。もう、とにかくもう、毎日、毎日参ってくるでしょう。だからもう、兄弟の方達がもう、金光様にばっかり参ってちから、もう、引っ張り出したわけです。ほんに、そげん言われりゃ、そればってんち言うちから。緩んだらもう、それぎりなんです、だから。だから、そういう時に、いよいよ、から結びに結んどかんと、解けるて、ね。解けるごたる信心で、神になれるはずが、絶対、ありませんよね。ね。だから、この辺の所も、自分の信心の心と言うものを、確かめながら、間違いなしに、自分と神様との間の中には、から結びのおかげを受けておるというね。その、おかげを、確かめながら、しかも、わが心が神に向かうていく事を楽しみに、信心させていただかにゃいけんですね。どうぞ。